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2010年2月

2010年2月27日 (土)

「未知との遭遇」と「ブレードランナー」と「スター・ウォーズ」

2つ前の記事で映画「未知との遭遇」について少し触れたので、それに関するトリビアをひとつ。「未知との遭遇」は「スター・ウォーズ」と同じ1977年に公開されたスティーブン・スピルバーグの映画ですが、これには3つのバージョンが存在します。77年に公開された「オリジナル版」、オリジナル版を再編集し、マザーシップ内部のシーンを加えて1980年に再公開された「特別篇」、そして2002年に再度修正をおこなった「ファイナルカット版」です。クライマックスで宇宙人のマザーシップ内部を見ることができるのは80年の「特別篇」だけで、下はYouTubeにアップされているそのシーンです。

余談ですが、3分30秒あたりから、フランソワ・トリュフォー演じるラコーム博士と宇宙人が手話で交流するシーンがありますが、個人的には宇宙人が出てくるあらゆる映画の中で、この「未知との遭遇」が宇宙人らしさという点ではナンバーワンだと思っています(実際の宇宙人を見たわけではないので、あくまでもイメージです)。もちろん他の映画で、デザイン的、技術的にはもっと良く出来た宇宙人はたくさんあります。でも「未知との遭遇」のは、その動きの妙なぎこちなさがかえって宇宙人っぽいというか、何かしら我々人間とは異質な未知の存在感を醸し出している気がするんですね。想像もつかない世界からやって来た、人間を超越した何かという感じがすごくするんです。これに比べると、最近の宇宙人は良く出来てはいますが、ただの奇形の動物とでも言いますか、地球上の何かを合成してできた感じがどうしてもぬぐえないんですね。

余談の余談になりますが、この「未知との遭遇」の宇宙人のぎこちない動きは、別に意図してそうなったわけではありません。この宇宙人は、ディズニーランドのアトラクションの人形と同じく機械仕掛けで動いているわけですが、メカを作っている最中はスムーズに動いていたそうです。ところがゴム製の皮膚を被せたとたん、その重みでメカが思うように動かなくなり、ぎこちなくなったということなんですね。この宇宙人を作ったのは、後に「エイリアン」のエイリアンや、「E.T.」の宇宙人を作ることになるカルロ・ランバルディで、映画ライターの中子真治氏によれば、彼のクルーはメカに関しては精通していたものの、ラテックスの扱いに関しては今一つだったらしいです。

余談が長くなりましたが、実は本題はここからですw。マザーシップ内部の映像で、丸い天井のパーツがぐい~んと上のほうへ昇っていくシーンがあります。

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この上の画像がそうですね。で、この画像を見ただけでピンと来た人はそうとうなマニアです。この天井のパーツは、とある映画で再利用されているんですね。その映画とは「ブレードランナー」です。映画の最初のほうで、ハリソン・フォード演じるデッカードが、スピナーという空を飛ぶ車に乗って警察タワーに向かうシーンがあります。その警察タワーのミニチュアが、この天井パーツを流用して作られているのです。

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この警察タワーはポスターのイラストにも描かれており、映画のひとつのキービジュアル的存在になっています。「未知との遭遇」も「ブレードランナー」もVFXを手がけたのはダグラス・トランブルと彼のクルーで、このような使い回しがなされているんですね。で、この記事を書きながら、何気なくWikipediaで「未知との遭遇」の項目を読んでいたら、何と既にこのことが書かれてありました。悔しいので、もうひとつWikipediaに書かれていないトリビアを。このシーンは下図のようにポスターでも描かれているわけですが

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この警察タワーの左横のビルに注目してください。

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これはポスターの絵なので、実際の映画に出てくるものとは多少違っていると思いますが、下の画像は、映画中のこのシーンのメイキング写真になります。

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中央の警察タワーの左にあるビルをよーく見てください。わかりにくかもしれないので、少し寄った写真を貼ります。

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どうでしょう? これをみてピーンときませんか? これは何を隠そう「スター・ウォーズ」に出てくるハン・ソロの宇宙船ミレニアムファルコンのミニチュアを流用しているんですねー。

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ただ、ダグラス・トランブルのクルーがミレニアムファルコンの本物のミニチュアを持っていたとは思えないので、これは多分、MPCから出ていたプラモデルを使ったと思われます。ちなみに「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」では、「ブレードランナー」のスピナーが、あるシーンで飛んでいるそうです。

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2010年2月26日 (金)

3D映画

映画「アバター」で3D映画に対する熱が一気に高まっていますが、昔から周期的に3D映画というのはブームが起きているんですね。1980年代前半にもちょっとしたブームがあって、「ジョーズ」の第3作目や「13日の金曜日パート3」は3D映画として公開されていますし、「スペースハンター」というB級SF映画までもが3Dで作られたりしています。当時中学生だった僕も映画館で偏光メガネをかけてこれらの映画を観たわけですが、その頃の3D映画と「アバター」のような今の3D映画とは、大きく違う点がひとつあります。それは、今の3D映画は、あまり飛び出して見えないということです。

「ジョーズ3」とか「13日の金曜日パート3」を見ると、いかにも3D映画です!という演出が随所にあるんですね。棒がカメラに向かってにゅ~っと伸びてくるとか、とにかくカメラに向かって何かがぐいぐい寄ってくるという演出があちこちにあるのです。でも後にビデオ化されて家のテレビで見たりすると、当然3Dではないですから、知らない人にとっては何だか意味不明な演出に見えるというマヌケな状況になります。このような「飛び出し系」の3D映像は、自分のすぐ目の前にモノが飛び出て来ますから、さぞかし迫力のある映像だろうと想像しがちですよね。でも実はそうではないのです。

下の図を見てください。これはスクリーンいっぱいに映し出された凶暴なパックマンのようなキャラが、立体として飛び出てきたときにどう見えるかを示したものです。

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これを見てもらうとわかるように、前に飛び出れば飛び出るほど、その物体は小さいものとして認識されてしまうんですね。たとえスクリーンいっぱいに映し出されていたとしても、過度に飛び出てくると、何かちっちゃいモンスターが目のまえで吠えてる、可愛い~みたいな本末転倒の映像に見えてしまうわけです。システム上、決して下図のようには見えないのです。

3d02

僕が映画館で「ジョーズ3」などを観たときに感じた違和感はまさにこれだったんですね。人間などが前に飛び出てくるんですが、なんだか小人に見えるわけです。2Dの映像を見るときは、脳が大きさや距離感などを自動的に補完します。俳優がカメラに近づいて巨大に見えたとしても、決してそれを巨人だと思ったりしませんよね。ところが3Dの情報を持つと映像の中にあるものが絶対的な大きさとして見えてしまうのです。このこともあってだと思いますが、最近の3D映画は、モノが過剰に前に飛び出る演出が少ないですね。飛び出す代わりにスクリーンの奥に広大な空間が広がっているように見せるのが主流になってきているようです。もちろん小さく見えて問題ないものであれば、どんどん飛び出てきて良いのですが。

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2010年2月24日 (水)

和笛と洋笛

最近書いていませんでしたが、僕は隔週で吉沢実先生のリコーダー教室に通っています。前回の講習では、先生が古今東西のいろいろな笛を持ってきて演奏してくれました。リコーダーが中世の初期のもの(吹いてくれたのはもちろんレプリカですが)から現在のものに至るまでどう進化してきたか、パンフルートや角笛といった素朴な笛、日本の伝統的な笛などを見て(聴いて)いるうちに、西洋と日本では笛という楽器の考え方がまったく違うことを知りました。最初に西洋の笛を一通り演奏したあとで日本の笛を吹いてくださったのですが、吹く前に「うるさいからビックリしないでね」と言うんですね。そして実際吹くと、本当にものすごいんです。笛でこんな音が出るのかと。単に音が大きいというレベルを超えて、何と言うか、空気の波動が耳の鼓膜をぐいぐい押してくる感じです。このまま聴き続けていると精神がどうにかなってしまうのではと思うほどの音。西洋のリコーダーやフルートのような、うっとり聴き入ってしまう楽器とはまるで音色が違うのです。

なぜ西洋の笛と日本の笛とでは音色がこうも違うのか? 吉沢先生によると、日本の笛は屋外で演奏することを前提としているから音が大きいということでした。日本の笛は基本的に神事で使われるものなんですね。西洋のように屋内で娯楽や芸術として演奏されるのではない、屋外の聖なる場所で神や霊を呼び出す、一種の装置としての役割が日本の笛にはあるわけです。

そのルーツは石笛(いわぶえ)にあると思われます。海に行くと、貝によって穴が開けられた石がたくさん落ちていますが(吉沢先生は観音崎の海岸でよく石笛になりそうな石を探しているとのこと)、古代の人はそれを吹いて、精霊との対話を試みたのでしょう。そのためには精神をトランス状態にする必要があり、和笛の一種狂気さえ感じるようなあの音色はその手助けになったのだと思います。

対して西洋の笛の原型となったリコーダー(Recorder)は、その名が示すとおり「録音機」「記録するもの」という意味があります。何を記録するかというと、鳥の鳴き声ですね。きれいな鳥の声を真似するための道具が西洋の笛なのです。したがって日本と西洋では笛そのものの意味と使われ方が全く異っていたと言えます。

そしてそのことを再認識したのが、先日の記事にも書いた、能楽師安田登さん主催による「国語の授業」です。授業の後半は俳句と能のコラボレーションという、一風変わった趣向で行なわれました。黛さんの俳句に能の旋律をつけて謡うとどうなるかという、ひとつの実験です。黛さんを挟んで左に安田さん、右に槻宅聡さんという囃子方(笛方)ががつきます。そして安田さんが能のように旋律をつけて俳句を謡い、それに合わせて槻宅さんが笛(能管)を吹きます。始める前に槻宅さんが言ったのは「この位置だと黛さんの耳を悪くしてしまうので、もう少し離れますね」という言葉。僕はリコーダー教室でのことを思い出しました。

安田さんが槻宅さんの言葉の補足としておっしゃったのは「能の演奏というのは、とにかくうるさくするんです」ということ。能は基本的には幽霊の話であり、霊的なものをあの世から呼び出すために騒々しい音を出すのだそうです。なので、単なる場の感情を盛り上げるためだけの伴奏ではなく、言ってみれば映画「未知との遭遇」で宇宙人との会話に音楽が使われたようなものですかねw。映画の中で宇宙人の応答を得るためにフランソワ・トリュフォー演じるラコーム博士が、演奏の仕方を「もっと速く! もっと速く!」と、どんどんピッチを上げさせたのは、能の「うるさくする」ということに通じるのかもという解釈もできて、ちょっと面白いです。ちなみに能の笛方の人は、笛の音が出るほうの耳が(能管は横笛です)たいがい悪いとかw。

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2010年2月22日 (月)

葉山の仕事場

先日書いた、3月末から仕事をすることになる葉山の事務所とその周辺を写真で。

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このビルの2階になります。まだ中には入れないので外観だけです。朝早く撮影したのでビルの正面には日が当たってません。現在は前に使っていた方が原状回復作業をしているところです。

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こちらビルの側面にある入口。1階はまだ営業していませんが、レストランになるようです。

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入口側から海のほうを見たところ。道を一本隔てて、すぐ海です。

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道を渡ったところの海岸。潮が引くと岩礁が現れます。

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周辺の様子。水はとてもきれいです。

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海岸沿いにはおしゃれな家も建っています。

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東京方面からはJR横須賀線に乗って逗子で下車、もしくは京浜急行線に乗って新逗子駅で下車し、そこからバスを利用します。こちらは最寄になる真名瀬のバス停。隣は魚屋さんです。

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この時期の風物詩、干しワカメです。

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仕事場入口前の道を奥へ進むと、山の遊歩道へとつながっています。

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2010年2月20日 (土)

国語の授業

能楽師で知人の安田登氏が主催する「国語の授業」を受講しました。講師は俳人の黛まどかさん。場所は広尾の東江寺。僕の奥さんがお茶の教室で黛さんと親しくさせていただいているのが縁で参加しました。今まで俳句というものにそれほど関心はなかったのですが、今回の講義はとても興味深く聞くことができました。俳句をよむことは美術方面の創作活動と非常に重なる部分が多く、大いに刺激を受けた次第です。

その後、青山の表参道まで歩いて、うちの近所の芦名というところで陶芸活動をやっていらっしゃる岡崎裕子さんの個展を鑑賞。最近はスズキのアルトという車のCMにでているので、岡崎さんを見たことがある方も多いのではないでしょうか。すこしばかりお話をして、ハチ公バスに乗って千駄ヶ谷の会社へ。猫のトイレを片付けてから、途中駒沢の公公婆婆で夕食を食べて帰宅。

下は自宅の花壇。去年植えておいたチューリップとムスカリの球根が芽を出してきました。

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こちらはムスカリ。葉のあいだからもう花が見えています。

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いつの間にかついていたカマキリの卵。子カマキリの誕生が楽しみです。

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こちらは枯れた芝生から勝手に生えてきたサクラソウ。可愛らしい花です。

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花のアップ。ずいぶん花持ちが良く、もう長いこと咲いています。

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いつも餌をもらいにくるスズメを下から激写!

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クローズアップ。

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2010年2月18日 (木)

葉山で仕事

3月末から仕事場を葉山に移します。千駄ヶ谷の今の会社はそのままで、分室というかたちで葉山に事務所を作ります。僕は基本的に葉山分室のほうへ常駐になります。

場所はココ↓(ストリートビューも見れます)

http://maps.google.co.jp/maps?q=35.269692,139.571096&num=1&sll=36.5626,136.362305&sspn=21.648293,28.344727&hl=ja&brcurrent=3,0x6018471bf4a8ce29:0xdd5fc93e0ad525d1,0&ie=UTF8&ll=35.269696,139.570999&spn=0.001487,0.002151&z=19

葉山の真名瀬海岸というところで、海のド真ん前です。この1月まで「木もれ陽亭」というレストランでした。裏はすぐ山で、登山遊歩道が設けてあり、森林浴を楽しむことができます。

ここで今までの仕事を続けつつ、もっとアーティスティックなCGに拘らないオリジナル作品の制作にも力を入れていこうと思っています。なので事務所の半分はギャラリーにして、作品発表の場にする予定です。その手始めとして、前にも書きましたがゴールデンウィークに開催される葉山芸術祭に参加します。この新しい仕事場兼ギャラリーで作品を展示します。

今のところ分室のメンバーは僕だけですが、海や田舎、自然が好きで、ここで仕事してみたいというCGアーティストの方がいれば歓迎します。興味のある方は(有)リンダのウェブサイトから、その旨を書いてご連絡ください。海と山から自然のパワーをもらいながら、今までにない仕事のスタイルを模索していくつもりです。

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2010年2月16日 (火)

特撮=CG?

30歳より若い人達は、映画の「特撮=CG」というふうに思っているかもしれませんね。映画の特撮に本格的にCGが使われ始めたのは「ターミネーター2」や「ジュラシックパーク」の頃からです(もちろんそれ以前にもCGが使われた映画もありましたが、極めて実験的な利用に限定されています)。これらはもう20年近く前の映画ですから、物心ついたときから特撮にCGが使われていたことになるわけで、「特撮=CG」と考えるのは当然でしょう。なので、YouTubeとかを見ていると、昔の特撮映画のコメントに「CGがへぼい」「よくできたCGだ」なんてのがつけられてるんですね。僕から見ると非常に違和感があるのですが。

でも30歳以下の人でなくても、今見ると「これCGだよね」と勘違いするような映像もあります。その代表的なものが1978年の「スーパーマン(クリストファー・リーブ主演)」のオープニングです。

YouTube 映画「スーパーマン」オープニング

いかにもCGのような映像ですが、この映画が公開された1978年は、今で言うCGのようなものはこの世に存在しませんでした。ではどうやって作っているかと言うと、これは「スーパーマン」からさらに10年さかのぼって1968年に公開されたスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」で使われた特撮を応用したものです。「2001年~」のクライマックスで、「スターゲート」と呼ばれるシーンがあります(下記映像参照)。

この映像は、後に「未知との遭遇」や「ブレードランナー」の特撮を手がけることになるダグラス・トランブルが開発した「スリットスキャン」という技法によって作られたものです。これまた今の人が見たらCGだと思ってしまうような映像ですが、アポロが月に行く前に作られたような映画でCGが使われるはずがありません。

この映像を作るには、まずスリット状に切れ目を入れた黒い厚紙を用意します。そして裏側から色のついたライトを当て、カメラのシャッターを開放にしたまま厚紙を動かす、もしくはカメラそのものを移動させて撮影します。すると、シャッターを開いたままですから、フィルムにはスリットから漏れた光が移動した方向にストリーク状にぶれて撮影されます。これで1コマ分の映像ができあがります。あとは、カメラ(厚紙)の移動距離、方向、露出時間を少しずつ変えながら、同じように必要なコマ数だけ撮影すれば、スターゲートのような映像ができあがるわけです。

「スーパーマン」のオープニングはこの技術を応用したものです。文字部分をくり抜いた黒い厚紙を用意し、その後ろから青いライトを当てます。カメラはシャッターを開放にして、文字に向かって前進しながら撮影すれば、その文字がストリーク状にぶれて撮影され、あたかも厚みを持った3Dの文字のように見えるわけです。ただ、最終的にスムーズなアニメーションにするためには、コンピュータで制御されたモーションコントロールカメラを使います。モーションコントロールカメラは映画「スター・ウォーズ」のために特撮監督のジョン・ダイクストラが工業用ロボットの技術を応用して開発したカメラで、プログラミングした通りの動きを何度も繰り返すことが可能なカメラです。したがって、映像制作にコンピュータが使われているという意味ではCGであると言えなくもありません(今で言うCGとは全く違いますが)。

CG以前は特撮に関わる人々が、いかにして望む映像を作るか知恵を出し合ったもので、今のハリウッドのCG技術は、こういった伝統的な特撮技術の上に成り立っています。昔の特撮技術にこそ、効率良くCGを作る方法、本物らしく見えるCGを作るヒントがたくさん隠されていたりします。僕自身、小学生のころから特撮マニアで、特撮に関する本を読みまくってきたことが今の仕事に大きく役立っています。なので、若いCGアーティスト達にも、昔の特撮技術をよく研究してほしいと思いますね。

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2010年2月15日 (月)

林田みかん

いくつか前の記事でみかんのことを例にとって書いたら、最近「林田みかん」というワードで検索してこのブログに到達する方が見受けられるようになりましたw。確かに僕は「みかん」という名前の猫を飼っているので、何で知ってるの?と勝手に心の中でボケつつ、これって漫画家、もしくはエッセイストか何かの人の名前か?という予想を立てながらGoogleで検索してみました。そしたら「林田みかん」というミカン農家がいらっしゃるようで。

Mikan

こちら林田みかんのウェブサイト

熊本の方ですね。僕は福岡県出身ですが、確かに父方の実家である久留米市から熊本にかけては林田という苗字が多いです。父の実家の近くは林田だらけ。林田というバス停もありますからね。

で、林田みかんですが、商品一覧のページを見ると、今年(というかもう去年のことでしょうが)はミカンの出来が悪くて、ネット販売は中止しているとのこと。今年は良いミカンができるといいですね。

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2010年2月13日 (土)

新年会

今日は毎年恒例、芸大デザイン科同級生での新年会。今年は卒業20周年ということで素敵な記念品が。でもあまり大っぴらにはしないでと言われたので、ここではそれが何なのかは書きません。一次会は新大久保の韓国料理屋ハレルヤ、その後、歌舞伎町に移動して居酒屋で二次会。歌舞伎町に来たのは2年ぶりくらいか? 結構変わっているものですね。そして23時ごろにお開き。

明日も会社で仕事なので、帰宅せずに会社に泊まることに。23時過ぎなのに人ごみでごった返す歌舞伎町を抜け、靖国通りへ。そこからタクシーで会社へと思ったのですが、よくよく考えたら会社までは歩いて行ける距離。結局、酔い覚ましを兼ねて、新宿から千駄ヶ谷まで歩き。新宿に来ていつも気になるのは、明治通り沿いにある丸井のメンズ館です。その看板が「○I MEN」と書いてあって、「I」が前のビルの陰になって見えにくいんですね。なのでパッと見「○MEN」=「オーメン」と書いてあるように見えるんです。池袋に住んでいたときは明治通りの池袋~新宿間をバスで頻繁に行き来していたので、70~80年代のオカルトブームを子供時代に体験した僕には、これが気になってしょうがなかったわけです。

↓コレ

Marui

約30分弱歩いて会社に到着。

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2010年2月12日 (金)

不動産屋

先日、わけあって逗子周辺で賃貸物件を探すのに逗子駅前の不動産屋をいくつか回ったのですが、イイカゲンなもんですねー。このあたりの不動産はどちらかというと土地や家を買うというのがメインで、賃貸にはあまり重きが置かれていないようです。どこに行っても「ないよー」とあしらわれ、一応探してみるとは言いながらも、数週間たった今でもどこからも連絡は無し。東京の不動産屋だったらしつこいくらいに連絡してくるものなんですがね。金にならない案件には用はないといったところでしょうか。唯一ウスイホーム逗子店だけが、いくつか物件を紹介、現地を見せてくれました。店長の顔の写真はやる気がなさそうに見えますが、逗子で賃貸物件を探すならウスイホーム逗子店をおすすめします。

 

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2010年2月10日 (水)

トヨタ

トヨタが大変なことになっているようですね。自業自得なのか、それとも米国の陰謀なのか、部外者の僕には知る由もないですが、今年に入って既に2本のトヨタのCMを手掛けたので(プリウスではありません)、それらがお蔵入りにならないことを願っています。

しかしまあ、なんですね。うちはフィアットの車に乗っていますが、調子悪くなるのは日常茶飯事ですね。別に中古ではなく、ちゃんと新車で買ったのですが。でもイタリア車なら調子悪くてもしょうがないという気になりますから、フィアットも大助かりですよ。これがトヨタだと万全の品質なはずだという世間の認識がありますから、ちょっと部品にガタがきただけで猛烈につつかれるわけです。

これは何も自動車業界だけでなく、僕のやっている仕事にもあてはまります。20年間CG業界で食ってきて、あそこはいいもの作るよという評判が立つようになると、その評判を維持するためにはものすごいパワーと緊張感が必要になってくるのです。気を抜くと、評判の割には大したことない、がっかりしたという評価を受けることになる。そういう負の評価は瞬く間に広がるので本当に恐ろしい。だから仕事はひとつひとつが命がけです。

本日午後は、毎年恒例の餅つき大会。数年前に、会社で僕の誕生日に何か面白い企画をやりませんかと言われ、じゃあ僕はモチが好きだから餅つきでもと提案したところ、それから毎年恒例の行事になりました。ほかのフロアにある関連会社のスタッフも集まって、大勢でアットホームなひととき。

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2010年2月 9日 (火)

観念と現実

デッサンをちゃんと勉強していない人は、「観念」で物を描いたり作ったりします。つまり物を観察することをせずに「自分の思い込み」で物を作るということです。ちゃんと物を見ないで描いたデッサンは「観念的なデッサンだね」と言われ、もっとも嫌われるもののひとつです。

たとえばみかんという果物があります。みかんと言うと実際にそのものを見なくても、「丸い」とか「オレンジ色」とか「表面がブツブツしてる」といった「みかんらしさ」というものを、ある程度頭で想像できるでしょう。これが観念、または先入観というものです。普通の人にみかんを渡して、これを絵の具を使って描いてくださいというと、ほとんどの人はこのような観念・先入感で描いてしまいます。本当に丸いのか、本当にオレンジ色なのか、本当に表面がブツブツしているのかといったことを疑ってかかることはありません。自分にとっての、みかんとはこうであるという観念によって描くのです。その結果、何となくみかんっぽいけど、本物のみかんにみえないねといった絵ができあがります。

人が風景などを写生する場合、目に映ったそのままを描くのではありません。目の網膜に投影されたそのままを描ければ、まるで写真のような絵が描けるはずです。でも実際はそうならないのは、そこに自分の主観、思い込みが入ってくるからです。網膜に写った映像は脳に送られ、そこで今までの経験に基づいた自分なりのロジックにより無意識に再構築されたものが、絵としてアウトプットされるわけです。自分では見たままに描いているつもりでも、そこには多かれ少なかれ、必ずこの思い込みが入り込んできます。

下の画像はこの「思い込み」を簡単に実感できるものとして、ウェブでよく紹介されているものです。

Ab

この画像のAのマスの色とBのマスの色はどちらが明るく見えますか? パッと見ではBのほうが明るく見えますよね。しかし実際にはAとBは同じ色なのです。Bのほうが明るく見えるのは、白黒のチェック模様では白が明るく黒は暗いという思い込み、先入感があるからです。同じように人間の目の白目の部分は文字通り白いですよね。なので多くの人は顔を描くときに目を白く描いて、まるで目が光っているかのような絵になります。また「影=暗い=黒い」という思い込みがあるので、影の色をつくる場合、必ずと言ってよいほど元の色に黒い絵の具を混ぜます。でも実際は影の色は黒くはないし、色彩豊かなものです。

デッサンの勉強とは、これらの思い込み、先入感、観念を可能な限り排除して、あくまで客観的に目の前のものを捕える訓練でもあります。みかんは本当に丸いのか、オレンジ色なのか、常識や固定観念を疑ってかかり、主観にとらわれない観察力を身につけることなのです。なのでデッサン力を身につけるということは、単に絵が描ける描けないの問題ではなく、もっと広範囲に応用できる基礎力を身につけることになります。その結果、ツールが絵筆からコンピュータに変わってもその基礎が生きてくるというわけです。

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2010年2月 7日 (日)

誕生日

昨日は誕生日。43歳になりました。ということで夜は近所にあるホテル音羽ノ森のレストラン「潮幸」で食事。当日の朝に予約したので窓際の席は取れませんでしたが、ここから見る夕焼けは特筆ものです。メニューもとてもバラエティに富んだもので、選ぶのが楽しい。前菜にフォアグラのテリーヌ(林檎のチャツネと年代モノのバルサミコ酢でいただきます)、メインにオマール海老を添えた相模湾平目のポーピエットを頂きました。

僕はお酒に弱いので、外食してもお酒はほとんど飲まないか、最初の1杯だけいただいて、あとはソフトドリンクかお茶という感じなのですが、ここは何だかハイテクなワインを酸化させないワインセーバーというのがあって、50mlからグラスでいただくことができるんですね。なので食前酒のあとは、メインに白ワイン、チーズで赤ワインをそれぞれ少量いただきました。

食事のあとは、少しドライブ(運転は奥さん)。葉山を抜けて小坪方面へ向かい、逗子マリーナへ。グランブルー・オチアイの前を通り、材木座から若宮大路へ抜けて134号線に出て、そのまま家へ。

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昨日、音羽ノ森に行く前に自宅屋上から撮った富士山。4月になると、ちょうど富士山のてっぺんに夕日が沈む「ダイヤモンド富士」を見ることができます。

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こちらは今朝の富士山。2月になってまた雪が増えてきました。

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冬のあいだはこのように伊豆大島もくっきりと見えます。山の上には雪が積もっているようです。

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毎日エサをもらいにくるスズメたち。

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葉山芸術祭

葉山芸術祭に参加することになりました。期間は4月24日から5月16日までです。葉山芸術祭の特徴は、決まった会場があるわけでなく、葉山近辺に在住のアーティストが、自分のアトリエや家を会場にして作品を展示することです。お客さんは、地図が載ったパンフレットを片手に、葉山周辺に点在するそれぞれの会場へ足を運んで作品を鑑賞するという仕組みになっています(こちらは去年のパンフレット、PDFです)。この4月から葉山の真名瀬漁港前に新たにアトリエを借りることになったので、自宅ではなくそちらで作品を展示する予定です。展示内容等、詳細が決まりましたら、ウェブでお知らせしようと思います。

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2010年2月 4日 (木)

資料

CGの仕事で、なかなか上達しない人に共通しているのは、ろくに参考資料を集めない、もしくは集め方がヘタという点です。僕が自分の会社のスタッフに、いつも口をすっぱくして言っているのは

「自分の想像力を信じないこと。自分が作るものに関連する資料を可能な限りたくさん集めること」

です。昔なら写真集や映像集などの資料は本屋や図書館、ビデオ屋に足を運んで探すしかなかったのですが、今はネットでいろいろな資料がタダで見れるわけです。にもかかわらず、資料集めをしないで、ヘボいCGを作る人が実に多い。自分の内面を描くようなアート作品ならいざ知らず、フォトリアリスティックなCGを作る場合は手元にある資料は多ければ多いほどいいわけです。経験の浅い人でも、見本を渡して、これそっくりに同じものを作ってくれと言えば、そこそこ作れるんですね。ダース・ベイダーの顔を想像でリアルに描けと言われても、よほどのマニアでないと描けませんが、写真を見れば誰でもそこそこ描けるのと一緒、または書道で、経験のない人が何のお手本もなく上手な字を書くことはできませんが、お手本を見せてこの通りに書けと言えば、何となくそれっぽく書けるのと一緒です。できないできないと悩んでいる人に限って、ろくに資料を集めず、自分であれこれ想像しながら作っていることが非常に多いのです。

僕は仕事のできの半分は資料集めで決まると思っています。VFXとしてのCG制作というのはフォトリアリスティックな映像を作ることがほとんどです。僕がやっているような仕事は、黙っていればCGが使われていることすらわからないものが多く、後でこれCGなんだよと言うとビックリされることがよくあるわけです。そのような映像を想像だけで作れと言われれば、それは不可能に決まっています。逆に、自分が作ろうとしているものとほぼ同じようなシチュエーションの実写資料を集めることができれば、その通りにマネして作ればいいので、悩んだり手間取ったりすることはないのです。自分の想像する余地を可能な限り無くす―これがフォトリアリスティックなCGを作る際の鉄則です。勘違いしないでほしいのは、これは別に考えることをやめろと言っているのではありません。資料の写真のようなCGを作るにはどうすればよいかは当然考えなければならないわけです。ただ、人間はなぜ人間に見えるのか、犬はなぜ犬に見えるのか、花はなぜ花に見えるのか、何かに光が当たってこのアングルから見たときに、この部分はどういう色になるのかといったことは頭で考えてもわからないということなのです。

こういう仕事をやっていると、何かの真似をして作るということは恥づべき行為だと、妙な勘違いしている人が割といるんですね。クリエイティブな仕事だから自分の力だけで作らなければならないと。これは大変な間違いです。もちろん、映像作家としてオリジナル作品を作っているのなら間違いでもないでしょうが、VFXのCG制作というのは別にクリエイティブでもなんでもないですよ。まあ何をもって「クリエイティブ」とするかという問題はありますけれど、基本的には単なる技術職です。CG制作者が何か新しいデザインや美、物語等を生み出しているわけではないですからね。

ついでに言っておくと、いわゆる「クリエイティブ」な仕事を目指す人でも、最初の勉強は徹底した「真似」から入るのです。僕は東京芸大のデザイン科を出ていますが、最初の1年はデザインの勉強なんてのは一切しません。まずは動物や植物、人間など自然界のものを徹底的に観察して描写したり、塑像したりして、自然に潜む「美しさ」を見つけるための観察力を養う。そして次は西洋や日本の古典絵画をこれまた徹底的に模写して、その作品がもっている力や美はどこから来ているのかを探ったりするわけです。自分の発想で独自の絵を描いたりオブジェを作ったりはしません。とにかく最初の1年は「良い形、色、美とは何か?」「良い物をそうたらしめているものは何か?」ということを、自然や既に存在する芸術作品等から徹底的に探るのです。これらはただ漠然と見ているだけでわかるものではありません。徹底的に自分でそれを真似てみて初めて理解できるわけです。

良いものとは何か?を知らずに良いものを作ることはできません。先人が残した良いとされるものを真似してみるのは、自分の成長のために大変重要なことなのです。

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2010年2月 1日 (月)

占星術と素粒子物理学

僕は学生の頃、中世ヨーロッパの暗黒文化に興味があって、澁澤龍彦や種村季弘の本などをよく読んでいたのですが、その流れでというか、西洋占星術に凝っていた時期がありました。分厚い専門書を買ってきて、自分の生まれた日時と場所から惑星の運行を調べ、ホロスコープを書いて、運勢を見たりしていたんですね。今ではネット上に無料でホロスコープを作成できるサイトもあって、誕生日と生まれた時間を入力すれば、惑星の運行表などを見なくても、お手軽に作ることができます(生まれた時間がわからなければ正確なホロスコープは作成できません)。

雑誌などに載っている星占いは、自分の星座から運勢を見ます。「自分の星座」とは、生まれたときに太陽と同じ位置にある星座です。つまり生まれたのが午後1時だった場合、太陽は真南より少しだけ西側にあるはずですが、その位置にある星座が自分の星座なわけです。もちろん昼間で明るいので、見ることはできません。では夜に生まれれば見れるかというと、太陽は地球の裏側にいるので、自分の星座も同じく地球の裏側にあります。したがって、自分の生まれた季節に自分の星座を見ることはできないのです。

占星術では12個の星座を使いますが、これは全ての人間を12のタイプで分類してしまえるということではありません。正式には星座のほかに、太陽、月、水星~冥王星の各惑星を使います。自分の生まれた瞬間に、これらの星が空のどこにあるかを記したのがホロスコープです(下図参照)。占星術は天動説に基づいています。円の中心が地球で、円の左が東、右は西、てっぺんが天頂になります。すなわち水平となる直径の線が地平線であり、円の下半分は地上からは見ることができません。円は星座の位置によって12分割されます。均等に分割されていないのは、実際の空の星座が等間隔で並んでいるわけではないことによります。

Holo_2 ※僕のホロスコープではありません。

たとえば自分の容姿や性格などのベーシックな部分は、自分が生まれたときにどの惑星(太陽・月も占星術では惑星だとみなします)が地平線を登ってきているかで決定されます。学生のときに友人数人に誕生日と生まれた時間を聞いてみてホロスコープを作ってみたのですが、占星術が示す容姿と本人の実際の容姿が驚くほど合致していて、思わず唸ってしまった経験があります。

運勢の決定には、各惑星がどの星座の位置にあるか、惑星どうしがどのような位置関係にあるか、はたまた順行しているのか逆行しているのかなど、様々な要素が考慮されます。惑星の位置は時刻や場所によってどんどん変化しますから、ホロスコープは、たとえ同じ日に生まれた人どうしでも全く違ったものになります。なので、同じ星座の人でも運勢は異なるわけです。

とは言っても、遥か遠くの星が自分の運命を決めるなどバカバカしいと思う人は多いでしょう。冷静に考えれば確かにそうだと思います。ところで話はがらりと変わりますが、僕は素粒子物理学に興味があって、その手の本を読んだり、大学の講演会に行ったりしています。素粒子というのは物質の最小単位です。原子の陽子・中性子を構成するクォークや、電子、光子といったものの総称です。そして素粒子物理学はそれらを研究する学問、つまり物質の根源を探る研究ですね。素粒子はそれ以上ない小さなもので、ここまでミクロなスケールになると、そこには我々の常識が通用しない世界が広がっています。

素粒子のことを勉強していると、とても不思議な感覚に捕らわれることがあります。現在、先端の研究で考えられていることは、

・物質が全くない真空の空間でも、そこにはある種のエネルギーが充満している。

・空間は素粒子大の微細なグリッド状に分割されている。

・真空のエネルギーがある一定の値を超えると、そのグリッドで区切られるマスが素粒子となって顕在化する。

例えばこういうことです。電光掲示板を思い浮かべてください。電光掲示板には、小さな電球がグリッド状に埋め込まれていますね。電圧がかかっていないときは電球は消えていますが、電圧がかかったものは点灯し、文字や映像を描き出します。我々が住むこの世界は3次元の電光掲示板のようなもので、空間は目に見えないほど小さなグリッドに分割されていて、マスにかかるエネルギーが一定量を超えると、電球が点灯するようにそのマスは素粒子となって現れるわけです。電光掲示板の文字が横にスクロールする場合、電球の位置は変わりませんよね。点灯する電球が変わっていくことで文字が動いて見えるわけです。これと同じように、例えば人間が歩いて移動するという行為も、空間のグリッドのマスが次々に素粒子になって動いているように見えるわけです。まさにデジタルなイメージなんですね。

つまり我々人間を含め、この世界に存在する物質は3次元空間というスクリーンに映し出されている映像みたいなものだと言えます。最近の物理学では3次元以上のより高次元な空間の存在が議論されており、例えば重力を伝達する素粒子「グラビトン」は、より高次元の空間へ飛び出ていくことが予想されています。高次元世界から我々の3次元世界を見ると、まさにテレビに映った映像のように見えるはずです。

そうなると、いったいどこからこういう仕組みが生まれたのかを考えずにはいられません。もちろん、今のところはわかってはいないのですが、何となく我々の存在を超えるさらに大きな存在を意識せずにはいられなくなるわけです。特に僕のように3DCGの制作を生業としている者にとっては、自分が仕事としてやっていることと物質の仕組みとの妙な共通点を感じてしまうわけで、我々も実は誰かが作ったバーチャルな世界の住人なのではないかと思ってしまうのです。

僕らがCG上で物体を物理シミュレーションしたり、キャラクターを群集で動かす場合、まず最初にそれらにいろいろな初期値を与えます。たとえば重さだったり、固さだったり、加速度だったり、力の影響の受けやすさなどといった様々な要素です。我々が何者かに作られたバーチャルなものだとすると、制作者は同じように何か初期値を与えるでしょう。宇宙をスタートさせるときにはもちろんですが、もしうまい具合に生命が誕生した場合、プログラム的にはそれにも何かしらの初期値を与えると思うのです。

プログラムで乱数を発生させる場合に、乱数のタネとして現在の時刻を利用することがよくあります。宇宙時間というものがあるのなら、宇宙作成のプログラムにはそれが乱数のタネとして使われているかもしれませんし、ある惑星に生命が誕生した場合、それを動作させるための初期値として、近隣の惑星の座標を利用することもあるかもしれないわけです。その場合、惑星の数が多ければより多くのバリエーションが設定できるので、惑星が3つしかない星系では、もしかしたら地球ほど生命の多様性がない可能性も考えられます。

で、もうおわかりかと思いますがここで先にかいた占星術の話につながるんですね。やや空想が飛躍しすぎているかもしれませんが、このように素粒子物理学のことを考えていると、占星術もあながちインチキではないなと思えるわけです。宇宙のスケールから見ると、我々人間も、太陽も月も惑星も単なる同じ1点に存在する素粒子程度の大きさにしかならないわけで、そうなるとお互いが相互作用していないなどと考えるほうが理にかなっていない気がするんですね。

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